wanderer

人生放浪記(まだ更新中)。物心ついた頃から性別に違和感あり。職業選択の不自由を味わいながら結果的に「放浪者」になってしまったこれまでの人生を振り返る。

再びオーストラリアへ

2016年の夏、7社目のコンサルタント会社を辞めたあと、今後どうしようかと考えながらも、こういうときじゃないと行けない、とオーストラリアのパースに行った。今度は事前に調べて、シティのど真ん中にあるホテル(B&B)に泊まった。そこはおいしいケーキショップを経営していて、昔パースに住んできたとき時々買っていた。へえ~ホテルもやってたんだ。街を散策し、ロットネスト島に日帰りで行った。相変わらず美しい海だった。
実は2011年にも、13年振りでオーストラリアに1週間だけ行った。東日本大震災の余震がおさまらず、緊急地震速報がなるたび心臓がキューっとなり、あまりに怖かったからだ。オーストラリアは地震がないとされる。怖がりと言われようと本当にあの地震の揺れは苦手だ。震災の影響で仕事もあまりなかったので休みをもらえた。このときはメルボルンとパースに行った。メルボルンではシティにできた新しいユースに泊まったが、USAから来た2人組と同じ部屋にされ、居心地があまりよくなかった。何の準備もしないまま飛び出してきたので英語はズタズタ。土地勘があるのが救いだった。アンさんとはあれから連絡が途絶えてしまい(私が横着した)、たしか引っ越し先の住所をもらったはず…その手紙が見つからなかった。結局、街歩きをしただけですぐパースに移動。国内でなんでこんなに時間がかかるっていうくらい移動時間が長い。昔、大陸4分の3周したときを思い出した。メルボルン空港から国内線でパースに行くとき、手荷物検査のところで「あなたが選ばれました」と日本語で書かれたカードを渡され、別途チェックを受けた。あんなこと初めてだった。震災直後で放射能か何かを疑われたのだろうか? パースに着いたのは夜。真っ暗だった。バスの降り場を間違えてしまい、シティのどこら辺かわからず、近くにいた警備員に「Where am I ?」と聞いてしまった。情けない。そのあとタクシーを拾って無事ユースに到着。部屋に入ろうとすると「オーそこのボーイ。あなたの部屋はそこじゃないわよ」と同室の女性外国人に注意された。いやいや、私はここの部屋です、と胸のふくらみを見せてわかってもらった。ああ、しんどい。ユースは6人部屋で、私は2段ベッドの上だった。下の人はスウェーデンから来ていたおばさんで、もう長いのか、すっかり居座ってるオーラが漂っていた。ベッドの周りには写真やお香、仏像のようなものが置いてあった。お香のそばにはサイババの写真が飾られていた。久しぶりに見たなあサイババ。一見、黒魔術でもやりそうな雰囲気だったが、話すと面白い人だった。私の甥っ子なの、とかわいらしい男の子の写真を見せてくれた。下の食堂で一人ビールを飲んでいると、若者のグループが「一緒に飲もうよ」と声をかけてきた。「英語が話せないからいいよ」と言ってもお構いなし。しかたなく同席すると、みんなニュージーランドからワーホリで来ている子たちだった。道路工事のバイトをしていたり、カフェでバイトしていたり。旅ではなく仕事目的で来ているようだった。ところで君は?と聞かれたので「日本で大きな地震があって、それが怖くて逃げてきた」と言った。みんないい子たちだったけどなにせ英語がズタズタなので話が続かない。申し訳ない。適当に切り上げた。翌日はロットネスト島に日帰りで行った。
2016年の今回はパースだけ訪れた。電車に乗ろうと駅に向かったら、なんと地下鉄ができていた。私が利用していた路線は(シティ内だけ)地下鉄になっていて、乗り場が大きく変わっていた。もうサムはいないだろうな…。家の前まで行ったけどノックはしなかった。そしてレイクモンガへ。久々に歩いたけどこんなに広かったっけ? シティに戻ってモールを歩いてみると、空き店舗が目立つ。景気が悪いのか、ホームレスの人たちを多く見かけた。からまれそうにもなった。なんとなく寂しい気持ちになった。
何かあると私はオーストラリアに行っていた。現実に向き合わず、逃げていると思われるかもしれない。まあ、何とでも思えばいい。行けるときに行っておかないと後悔する。いつか行きたくても行けなくなる日がくるのだから。