wanderer

人生放浪記(まだ更新中)。物心ついた頃から性別に違和感あり。職業選択の不自由を味わいながら結果的に「放浪者」になってしまったこれまでの人生を振り返る。

パースでの日々

私は写真が好きで、一眼レフ(フィルムカメラ)を毎日のように持ち歩いていた。こんな旅は二度とできないので、自分が見たすべてを残そうと、あわよくば写真展を開きたいなんて思っていた。撮った写真をプリント(オーストラリアはハガキ大のサイズ)して、そのまま切手を貼り、エアメールとして日本の家族や友人に送っていた。また、美術館にも行った。メルボルンほど大きくはないが、常設展だけなら入場は無料だ。日本はこういうところを見習ってほしいと思った。
正月明けのある日、海に行こうとパース駅で電車を待っていると「Are you Japanese?」と声をかけられた。当時の私は真っ黒で、自分で言うのも変だが国籍(性別も)不明だった。ニュージーランドマオリシンガポール人などと間違われることもあった。「Yes」と思わず振り向くと、小さなおばあさんが立っていた。私がこれから海へ行くというと「ついていってもいいですか」と言ってきた。なんでもこのばあさん、パースの郊外に家を買ったんだそう。土地勘がないらしく、日本人ぽい私に声をかけたらしい。海へ行く間、まだ建築中の家の写真を私に見せ始めた。ただの自慢かよ。海までついてきたが、じきに帰っていった。不思議なばあさんだった。
この頃は気が向いたら電車に乗って海へ行っていた。30分もすると目的の駅に到着。この駅の近くには友達が住んでいて、待ち合わせて一緒にビーチへ行ったりもした。シャワーや更衣室はあるが売店はない。レジャーシートやパラソルもない。バスタオルを砂の上に敷くのがオージースタイルだった。ロットネストほどではないが、東京ではありえない美しい海、真っ白な砂浜。それが都心部からこんな近くにある。うらやましい。体育の授業なのか、子供たちが大勢いてサーフィンをやっている。 みんな首の後ろが隠れる帽子をかぶり、服のような水着を着ていた。紫外線から守るためだろう。意識が高いというか、日本とはやることなすこと違う。木陰で海を眺めながら友達と話していると、ニコニコしながら「日本の方ですか」と話しかけられたこともあった。オーストラリアでは第2外国語で日本語を勉強していた人が多いのだそう。そういえば観光局の受付の女の子も日本語がペラペラで「私は漢字2000個書けます」とか言っていた。ヘタなこと言えないなと思った。
1月26日のオーストラリアデ―。キングスパークでイベントがあるというので友達と出かけた。そこでたまたま観た歌手のステージ。歌っていたのは「Standing Strong」。歌声に惹かれた。あれは誰なのかと聞くと、Wendy Matthewsという地元の歌手だと教えてくれた。一発でファンになった。夜はスワンリバー沿いで花火があがるというので場所取り。対岸から花火があがるのかと思ったら、なんと後ろの、シティにあるビルの屋上から花火を打ち上げている。度肝を抜かれた。すごかった。
週末はフリーマントルでマーケットが開かれるのでよく行った。少し歩けば海岸で、有名なフィッシュ&チップスのお店があるので食べに行ったりした。ある日、友達数人と外で休んでいたら「日本の方ですか~」と声をかけられた。日本人の女の子2人だった。ワーホリで日本から来たばかりらしい。「週末は何して過ごしてるんですか」「どこかおすすめのところあります?」と質問された。「そこのマーケットは?」と私が言うと「もう行きました」…つまんなそうな顔をしていた。この子たちは感覚が違うなと思った。ここ(オーストラリア)に東京のようなものを求めてはいけない。それを求めるなら、ここはあまりに退屈だ。確かに東京より刺激は少ないし、私だって退屈だと思う部分もある。当時のオーストラリアは、夕方5時になると店が閉まり始め、土日はほとんどの店が休みだった。でも私にとってはごみごみしておらず、自然豊かでゆったり過ごせる。人間らしい生活ができると感じていた。あの様子じゃ、早々に日本に帰国してしまうのではないだろうか…。
定住していたおかげで、日本からの荷物を受け取りやすくなった。ある日、家族からまた荷物が送られてきた。インコちゃんたちは元気そうだ。寺田恵子さんのニューアルバム「END OF THE WORLD」のCDと年賀状(一言直筆メッセージつき)も入っていた。私は旅の間、たわいもないことを書いて恵子さん(事務所あて)に手紙を送っていた。たった一言でも直筆だ。いやあ~うれしかった。このアルバムの曲も後半の旅のお供に加わった。「この空の下」を聴くと、当時のことを思い出す。
そろそろ夏も終わる。また旅の再開だ。残すところは西オーストラリアの北部と東海岸。計画を立てながら、もう使わないものやお土産を日本に送ったりして過ごした。ビールは、州によっていろいろな銘柄があったので、記念に空き瓶をとっておいた。日本に荷物を送るとき、郵便局員に「まさか、中身は入ってないでしょうね」と冗談半分本気半分で言われた。