wanderer

人生放浪記(まだ更新中)。物心ついた頃から性別に違和感あり。職業選択の不自由を味わいながら結果的に「放浪者」になってしまったこれまでの人生を振り返る。

別れと出会い

2001年4月17日。セキセイインコのピーくん(オス)が亡くなった。この子はうまく飛べず、先月、ヒーターの角に落ちてしまった。頭を打ってしまったのかもしれない。それ以来元気がなく、毛を逆立ててじっとしていることが多かった。病院に連れて行ったが手の施しようがないと言われた。うちに来て6年だった。最期は私の手の中で旅立った。何もしてあげられなくてごめんなさい。
写真店でアルバイトしながら勉強をする日々が続いた。放送大学教養学部のみ。私は、渡邊二郎教授の哲学を中心に、文学、芸術や心理学系の授業を取っていた。
2002年の夏、突然会社から招集がかかった。各店にいるアルバイトや社員が一同に集められた。社長が「経営悪化のため、リストラします」と。どういうこと? そういうことだった。聞けば、以前からあまり状態がよろしくなかったらしい。私はいいけど家族持ちの社員さんとか大変だなあ。エリア店の社員さんには良くしてもらったので、なんだか気の毒だった。結局8月で会社都合の解雇となり、失業手当の手続きをしに職安へ。以前、労働相談などを受けていた私が今度は相談する立場になるとは…皮肉なものだ。
次の仕事は…今は勉強を優先したかった。でも学費もを稼がなければ。在宅でできるライター(未経験可)の仕事を見つけた。業務委託で400字程度1枚850円だった。その会社(マンションの一室)は絵画や陶芸などの写真集(会員誌?)をつくっていた。仕事は作品のレビューを書くこと。美術の詳しいことはわからないと言うと「印象をそのまま書いてくれればいいから」。こんなド素人に書かせて大丈夫かと思ったが、これも経験と思い引き受けた。週1回出社し、編集者にチェックしてもらう。原稿が真っ赤になって戻ってきた。いくら素人とはいえ、ちょっとムッとした。作家とかってこういう思いをするのか。しかし1枚850円。そんなにたくさんは書けなかった。これは内職と一緒、あまりに効率が悪い。会社へ行って時給で働いたほうが稼げる。業務委託のライターは半年で辞めた。
放送大学通信制といってもスクーリングで年に何回か直接授業を受けなければならない。私は運よく、憧れの渡邊二郎先生の授業を直接受けることができた(のちに退官)。東大の名誉教授なんてそうそうお目にかかれない。しかし渡邊先生は偉ぶることなく、気さくに応じてくれた。授業が終わるとみんなサインがほしくて一斉に並んだ。そんなに有名人だったのか! 私も並んで教科書に一筆書いてもらった。自殺を考えるほど鬱になっていた私を救ってくれた人だ。嬉しかった。また、もう一人、大事な先生に出会った。文化人類学者の原ひろ子教授(お茶の水女子大名誉教授)だ。ジェンダー研究でも知られる。原ひろ子教授の「家族論」というテレビの授業で、血縁関係に縛られない新しい家族の在り方、みたいなことを紹介していた。その内容にうなずくことが多く、先生の講義をもっと受けたいと思った。放送大学は前年に大学院を設置していた。学部の卒論は、ヤスパースが言う限界状況を自分のことに当てはめて考察した。でも、なんとなく消化不良だった。大学院では原教授も教えているし、ダメ元で受けてみようか。自分の問題をもっと掘り下げたい。思いだけで大学院を受験した。たしか小論文と面接だった。面接では原ひろ子教授のほかにもう一人男性の教授がいた。もう記憶が定かでないが、男性の教授にかなりつっこまれて、落ちたな~と気落ちして家に帰ったのを覚えている。そしたらなんと合格していた。びっくりした。2004年3月。2年次から編入した放送大学を無事に卒業、4月に大学院に入学した。