wanderer

人生放浪記(まだ更新中)。物心ついた頃から性別に違和感あり。職業選択の不自由を味わいながら結果的に「放浪者」になってしまったこれまでの人生を振り返る。

2005年の考察(抜粋)3

私たちは、いつの間にか男、女イメージを各々の中に持っていて、初対面の際は、これまで自分が蓄積してきたデータから「この人はどちらなのだろう」と意識的あるいは無意識のうちに探っているのだ。それは、身体特徴(身長、胸の膨らみの有無・髭の有無、体毛の濃さなど)、髪の長さ、服装、あるいは服装の「色」(公衆トイレなどのマークに顕著であるように、往々にして青っぽい色は男、赤やピンクは女というイメージを持つ人が多いのではないだろうか。乳幼児の服にもこの傾向が強いと感じる。)、声などからである。

私の場合、時には男であると思われたり、時には男っぽいけど女だ、と判断されたりする。ひどい時は、めずらしいモノにでも出会ったかのように怪訝そうな顔をして、じろじろと私を見る。そして、今までの自分のデータから必死に手がかりを探し、私が「どちらなのか」を判別しようとする。私の経験では、こうした「性別」を知ろうとするのは全て男だった。

また、言語の読み書きができるようになるためには「教育」(「良き国民」となるため、という意味での教育)を受けなければならない。では、複数の国に及ぶ英語圏などはどうなるのかという疑問が生まれるが、その言語を学ぶ「教育」、他にはその土地の「慣習」といったことも絡み、国が違う人同士では、自分たちが同じ共同体である、とはあまり思わないだろうと感じる。というのも、自分のいる国が、生まれた時から存在していたために、そして「教育」を受けているために○○国の人間、○○人という観念がすっかり定着してしまっているのである。「アクシデント」がない限り、そのことを敢えて疑うことはしないだろう。そして今、これを書いている私も例外ではなく、無意識のうちに「刷り込み」や「思い込み」があるのかもしれないのだ。

例えば「女性性器切除」という慣習がアフリカを中心に世界40カ国で行われ、エジプトでは95%以上の女性たちが、おとなの女となるためにこの儀礼を通過してきているという。女性の身体や精神を害する以外何の益もないため、エジプト政府およびWHO、国際NGOなどが廃止を訴えているものの、固有の文化に対する反発と受け取られ、住民の多くはよい慣習として継続を望んでいるというのだ、という。この習慣が起こった経緯は諸説あるが、定かではないとのことだ。[1]

なぜこれをしなければいけないのか?と立ち止まることなく、延々と続いてきてしまったために、「当然」と思う気持ちが根強く、思考が停止し、客観的な意見を受け入れ難くなってしまっているのだ。これは一例にすぎず、日本における私たちの生活においても、単に〈昔から続いていることだから〉というだけで、多くの人に「普遍」なことであると信じられていることがあるのではないだろうか。

 

[1] 青山温子・原ひろ子・喜多悦子『開発と健康 ジェンダーの視点から』有斐閣 2001  pp.160-162