wanderer

人生放浪記(まだ更新中)。物心ついた頃から性別に違和感あり。職業選択の不自由を味わいながら結果的に「放浪者」になってしまったこれまでの人生を振り返る。

2005年の考察(抜粋)2

私が本研究でなぜフランスの、しかも17世紀の思想家の本を背景にして、今の日本の状況を語ろうとしているのかと疑問を持たれるかもしれない。遠い時代の外国の理論を現代の日本に単純に当てはめて考えることはできない、と私の研究そのものに眉をひそめる人もいるだろう。これに対する私の答えは、第3章第5節でも述べているとおりである。

ここでもう一度言おう。私は、男女[1] の問題というのは人類にとって共通の問題であると考える。つまり、国は違っても我々は人間である以上、また「国家」に属している以上、男か女という性別を割り振られ(だからといって決められた生き方しかできないというわけではないが)、その性にふさわしいとされる名前をつけられ「そのような人間」として「他者から見られ」て、一生を送る。もっと根本的に言ってしまえば、国や人種や慣習が違うという以前に、そもそも国という概念を持たない土地であったとしても、我々は人間で、かつ男あるいは女として生まれてくるのである。あらゆる戦いがあって、今の「国境」ができ(2005年現在でもなお、紛争中の地域もあるが)、私たちはいつの間にか○○国の人間、○○人として生きていることを知るのである。そして、これを「当然」と見なしがちである。

「国民は〔イメージとして心の中に〕想像(○○)された(○○○)もの(○○)である。というのは、いかに小さな国民であろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には、共同の聖餐(コミユニオン)のイメージが生きているからである」。[2]  

では、何が「国民」にそのようなイメージを抱かせるのか。私は、その役割を為す大きなものの一つは「言語」だと思う。つまり、共通の言葉を介することによって、意思の疎通もでき、似たようなイメージをお互いに抱きやすくなるのだ、と私は考える。男、女、といった言葉を聞いて、誰が頭の中に思い浮かぶだろうか。現在のパートナーのことだろうか、それとも憧れの有名人だろうか。「きれい」「かわいい」という言葉を聞いて、男のことであるとはあまり想像されないだろう。「たくましい」「筋肉質」や「理性的」といったという言葉を聞いて、女のことだとはあまり想像しないだろう。また、「医師」や「弁護士」と聞くと、私たちはつい男性を想像してしまいがちではないだろうか。それを裏付けるかのように「女性弁護士」「女医」といった表記がある。「男性弁護士、男医」とは言わないのに、あえて「女○○」とつけられる。これらは、私たちが言葉に対してある一定のイメージを持っている、または植えつけられていることを示しているとは言えないだろうか

 

[1] ここでは便宜的に「男女」と言っているだけであって、すでに本文で触れてきた「男と女の間には多様性がある」ということを無視しているわけではない。

[2] ベネディクト・アンダーソン『増補 想像の共同体』白石さや・白石隆NTT出版 1997  p.24