wanderer

人生放浪記(まだ更新中)。物心ついた頃から性別に違和感あり。職業選択の不自由を味わいながら結果的に「放浪者」になってしまったこれまでの人生を振り返る。

2005年の考察(抜粋)8

最後に、本研究のまとめとして、私の見解を述べようと思う。

「精神に性の違いはない」「ゆえに両性は平等である」というプーランの主張についての私の考えはやはり同意するに至った。

プーランが最も言いたかったのは、既存の法律や慣習といった、ルールや規範とされているものは、決して自然なものではなく、そこには法律なりをつくった者(多くは男)の偏見が入り込んでいるのだからうのみにしてはいけない、自らの頭で考えよ、ということであったと思う。多くの人が普遍であると思っている(と私が認識している)男女観は、男が、男に都合の良いルールをつくりあげ、それを自明のものとし、「純朴で蒙昧な人々」が延々と受け入れ続け「呪縛」と化しただけであって、本来は、「普遍」でも何でもなく、両性は平等である、と考えるに至った。

 

確かに、ホルモンの作用が精神に及ぼす男あるいは女の「傾向」は存在する。しかし、それとて明確に男と女に分けられるというものではないということがわかった(第4章第3節)。端的に言ってしまえば、「男と女」という以前に、一人一人が異なっているのであり、そのことを今まで軽視しすぎていたのではないだろうかとさえ、思ってしまう。抑えられぬ性的な衝動ゆえの性犯罪、あるいは暴行犯罪などは、多くは男の側に見られる。そして、これにはテストステロンの作用が強く影響しているとも推察できる。 が、そのような身体的原因によるものだけではなく、これは社会が男の都合の良いようにつくられていたこと、大雑把に言えば、男は我慢するということを普段の生活の中であまり強いられてこなかった、自分の欲求のおもむくままに行動しても許されていたからではないか、と私は考える。男の子は少々荒っぽくても元気なほうがいい、行儀が悪くても大目に見る、といったような家庭でのしつけにも、原因の一端があるのではないか、と私は思うのだ。