wanderer

人生放浪記(まだ更新中)。物心ついた頃から性別に違和感あり。職業選択の不自由を味わいながら結果的に「放浪者」になってしまったこれまでの人生を振り返る。

2005年の考察(抜粋)6

ここ数年で、「ジェンダー」という言葉がよく聞かれるようになったが、誤って解釈されたまま、一般化されてしまっている感を否めない。

また、「ジェンダー・フリー」という言葉も「性別をなくす」といったように誤って解釈されている。月刊誌『女性展望』創刊50周年企画の座談会で、古橋源六郎氏(日本交通安全教育普及協会会長)がこのように言っている。「原ひろ子さんが『ジェンダー・フリーというのは、性差意識の解消ではなくて差別意識の解消であり、これは英語圏の教育分野の研究者も八〇年代から使っている言葉』(中略)と言われていますが、そのように皆が解釈すればあまり問題にならなかったのでしょう」[3]

 TVや新聞など、巷に溢れている言説を、よく考えることもなく「真実」であると解釈してしまう。それが「自分に都合の良い」考えで、しかも学識ある人、有名な人が言っていればなおさら「そういうものだ」と信じてしまう。こうして偏見の深みにはまっていく、とプーランも指摘している。(第3章第3節)

 先行研究でも挙げたように、近年は多様な性や多様な生き方があるということを教育の中に取り入れている学校もある。これは非常に大事なことである。今までは(私の経験から言えば、少なくとも35年くらい前までは)「男は、女はこうあるべき」という道筋があって、それを疑う者はほとんどいず、また考えることもなく、そこへ到達すれば「幸せ」になれるのだという「思い込み」でもって、多くの人々は生きてきたのではないだろうか。しかし、近年は多様な生き方ができるようになり、性別による制限も少なくなってきた。この傾向を歓迎している人がいる反面、苦々しく思う人たちもいる。なぜ、苦々しく思うのかというと、このような人たちは自分の立場を失うのではないかと恐れているからだ、と私は考える。「思い込み」が強烈にその人を支配し、これまでの社会の価値観、すなわち自分のアイデンティティが揺らぐことに不安を感じているのだ。では、なぜ不安を感じるのか。それは、厳しい言い方をするならば、自分の頭で考えて生きてこなかったからである。自分と向き合おうとせず、自分を知ろうとせず、他人任せに、あるいは社会の風潮の中に、自分という存在を預けてきたからである。そして多くの「偏見」にまみれて、自分自身の中の「偏見」を自覚する力すら失ってしまっているのである。

 

[3] 『女性展望』創刊50周年企画座談会「『ジェンダー・フリー』バッシングをめぐって」p.8

(『女性展望』2004年7月号 (財)市川房枝記念会出版部)