wanderer

人生放浪記(まだ更新中)。物心ついた頃から性別に違和感あり。職業選択の不自由を味わいながら結果的に「放浪者」になってしまったこれまでの人生を振り返る。

1995~1996

シェアハウスのオーナー、サムはアルジェリアからの移民だった。4か国語を話せるインテリだったが、オーストラリアでの職業はタクシードライバー(移民となると職業選択が難しいのか?)。 私ともう一人日本人の女の子と3人で共同生活だ。部屋は決して広くはないが、立地がいい。当時、光熱費込みで週65ドルくらいだったか。電話は受信専用だったので、かけたいときは近くの公衆電話に行った。この頃はテレビで「Mr.ビーン」がやっていた。サムと毎週一緒に観ていた。サムは、仕事終わりにキングスパークの夜景を見に連れて行ってくれたりした。やさしいおじさんだった。いまでこそ日本でもシェアハウスができているが、オーストラリアではすでに行われていた。
私はしばらくここにいる予定だったので、領事館に在留届を出しに行った。『地球の歩き方』に載っている住所をたずねるも…ない。当時は携帯もネットもないので『地球の歩き方』が主な情報源だった。よくこういうことがあったので『地球の迷い方』なんて言っていた。でもなんとか領事館にたどり着いて在留届を出した。領事館なのでてっきり日本人がいるかと思ったらオージーが受付にいてビックリ。「ナニカゴヨウデスカ」と日本語で言われて、それはそれでビックリした。
パースで知り合い、友達になった子たちと後日ロットネスト島へ泊まりに行った。ユースを予約し、スーパーで食材を買って料理。レンタサイクルで島内を1周した。気が向いたら自転車を停めて、海へゴー。真っ白な砂浜、緑がかったインド洋の海。別格にきれいだった。日本と違って人がほとんどいない。プライベートビーチのようだ。ぜいたくな時間を過ごした。
1996年を迎えた。1月のある日、日本から荷物が届いた。母親からだった。税関の書類が入っていて、袋のラーメンと粉末のコーンスープが引っかかったので処分した、とか。で、何が送られてきたかというと…。お餅、お餅を焼く餅網、そして海苔、さらに長芋! なんでラーメンがダメで長芋がOKだったのか、いまでも不思議だ。さっそく餅を焼いているとサムが来たので「食べる?」と聞くと、「その黒い、紙みたいのはなんだ?」と言ってきた。ああ、海苔のことか。まあ、びっくりするでしょうね。海藻だよ、と言ったが食べなかった。
食事は基本的には自炊していた。お米はオーストラリア米(ショートライス)がスーパーで売っており、日本のお米に近かった。旅で身につけた、鍋でごはんを炊くのもすっかり慣れていた。一時、どうしても大根おろしが食べたくなり、中国人がやってるお店で大根を買ってきた。あ、おろしがねがない…とキッチンをあさっていたら、チーズおろし器が出てきた。おろすのに苦労したが、なんとか大根おろしができた。鬼おろしのようだった(苦笑)。
家から10分くらい歩くとレイク・モンガという大きな湖がある。ブラックスワン(黒鳥)が見られるとかで、ツアーバスも立ち寄るところだ。私は結局オーストラリアで仕事をしなかったので、友達と遊んだり、週末はフリーマントルのマーケットへ買い物に行ったり、海に行ったり、日本に手紙を書いたりして過ごした。レイク・モンガへは毎日のように通った。散歩をしている人も多く、すれ違うときは「ハーイ」と軽くあいさつ。ベビーカーを押したお母さんがウォーキングしていたり、車いすの女性が犬と一緒に散歩していることもあった。レイク・モンガは、ブラックスワンはもちろんペリカンやオウムといった、日本じゃまず近くで見ることはないような鳥がたくさんいて、鳥好きの私は飽きなかった。うちのセキセイインコたちは元気にしているだろうか…。
夏の間、パースにいる間にどうしても行っておきたい場所があった。西オーストラリア州の南部にあるエスペランスだ。当時は交通が不便で、レンタカーで行こうということになった。それにしてもなかなかの距離。もちろん、せっかくだから周辺も観光することにした。でもあと1人足りない。一緒に行ってくれる人が見つかる間、地図を広げて旅の計画を立てていた。