wanderer

人生放浪記(まだ更新中)。物心ついた頃から性別に違和感あり。職業選択の不自由を味わいながら結果的に「放浪者」になってしまったこれまでの人生を振り返る。

F1アデレードGPとインディアン・パシフィック

再びアデレードのユースに戻ってきた。前半メインのカカドゥ、エアーズロックを無事に観光することができてホッとした。タマちゃんと再会、グレネルグに行ったり、F1のコース(公道)を見て回った。前年に亡くなったセナを追悼するプレートもあった。このあと、私はメルボルンの英語学校で知り合った子たちと合流し、F1グランプリを見ることになっていた。
タマちゃんとはここでお別れ、楽しかったよありがとう!(帰国後、日本で再会した)。
私はユースから歩いてあらかじめ予約していたYMCAに移動し、メルボルンからの友達と合流した。
そこにはF1グランプリを見にやってきた日本からの観光客もいて、日本人だらけだったがとても楽しかった。滞在時、友達が私の26歳の誕生日を祝ってくれた。
北海道から来たとても素敵なご夫婦、一人旅が慣れている歯科医の女性、ワーキングホリデーでたまたま来ていた同い年の男の子なども交え、楽しい日々を過ごした。
私たちは一番安い3日間有効のチケットを買って予選から楽しんだ。ご厚意で北海道のご夫婦が自分たちのガレージパスを貸してくれ、ピットなどを見学。スタンド席で予選を見ていると、ドリキンと川井(F1解説者、鈴木保奈美の元ダンナ)ちゃんが! レースに憧れていた私はうれしくて声をかけ、写真を一緒に撮ってもらった。グッズ売り場をうろうろしていたら、ワーキングホリデー協会で一緒に英会話を勉強していた女の子と偶然出会う。びっくりした。
1995年11月12日。最後のアデレードGP決勝(翌年からメルボルンに移る)。日本人ドライバーでは片山右京が参戦していた。初めて見るF1に興奮した。ものすごい爆音で耳が変になった。でもエンジン音はたまらない。血が騒いだ。私は直線コース、カーブなど場所を移動しながらレースを楽しんだ。レースが終わった後はコースが開放され、記念にタイヤかすなどを拾って歩いた。レース後のイベントライブではあのボン・ジョヴィが来た。それ目当てで来た人が多かったのかな。私は見なかったが、あとで歯科医の女性から写真をもらった。充実した3日間だった。
1995年11月14日。とうとうあのインディアン・パシフィック(シドニー~パース)に乗車する。テレビで見た、あの大陸横断鉄道に乗れる。私はアデレードからパースに向かうが、それでも2泊3日かかる。これはメルボルンにいたときにすでに予約していた。私が乗ったのはホリデークラス、2等の個室(二人部屋)で食事別、シャワー・トイレは共同だ。当時で430ドルくらいだった。
ケズウィック駅まで行くシャトルバスに乗るも、あちこちのホテルを巡回していくのでなかなか進まない。なんとかギリギリに駅に到着し、無事乗車。同室はカナダから来たワーホリの女の子。部屋はコンパクトで、洗面台がついている。寝るときは2段ベッドになる仕組みだ。カナダ人の子と一緒にレストランカーへ。彼女はサラダバーしか利用しなかった。ベジタリアンなのかな。家族の写真を見せてくれたが、大きな家に住んでいた。やっぱ日本とはちがうな。なぜかカナダ人は国旗のワッペンをバックパックに縫い付けている人が多かった。彼女もまたそうだった。カナダの国旗はかわいいからなあ。日本でこれやったら違う意味にとられてしまうだろう。
途中、ナラボー平原の真ん中にあるクックという町で停車。列車を降りて観光する。ここだ、テレビで見たあの場所だ。ここは鉄道員のための小さな町。たしかここに住んでいる子供たちは無線だか衛星放送で勉強しているとテレビで見た記憶がある。いまの先駆けじゃないか。
本当に何にもない。見渡すかぎり地平線。そしていよいよ世界最長の直線距離に入る。約480キロ、東京~京都に匹敵するらしい。まったく変わり映えのしない景色。でも飽きることはなかった。私は今、憧れていた鉄道に乗って旅をしている。幸せだった。
早朝、部屋にコーヒーのサービスが来た。と同時に「食べ物を持ってる? 持ってるなら出してください」と。オーストラリアは州をまたぐときも検疫が厳しい。仕方なくまだ食べていなかったリンゴを差し出した。1995年11月16日。パース(イーストパース)に到着。ここで年配の日本人女性(母親と同じくらいか)と出会う。彼女は1等個室にいたらしい。ブリスベンで英語学校に通ったあと、旅をしているという。彼女もユースに泊まるというのでシティまで一緒に移動する。
いよいよパース。夏の間、パースで定住しようと思っていた。シェアハウスがうまくみつかればよいが…。