wanderer

人生放浪記(まだ更新中)。物心ついた頃から性別に違和感あり。職業選択の不自由を味わいながら結果的に「放浪者」になってしまったこれまでの人生を振り返る。

渡航準備

当時、ワーキングホリデービザは(オーストラリアの場合)即日発行された。条件は18~25歳、健康で預金残高が30万円以上あること。アルバイト程度の労働と8週間の英語学校通学が認められていた。私は旅、全土一周が目的だったので、働く気はなかった(実際、仕事はしなかった)。
英語は全然話せず、知り合いもいない。海外旅行は前年に香港・マカオのパックツアーに行っただけだ。
それでも全く不安はなく、やる気がみなぎっていた。
最初の街はメルボルン、直感で決めていた。シドニーはほとんどの人が行くし、そういうところは興味がなかった(当時はメルボルンは今ほどメジャーではなかった)。古い建物と高層ビルが共存している風景、路面電車、街の中心には広い公園がたくさんある。本を通してメルボルンの街に惹かれた。
旅行代理店に行き、海外旅行保険と航空券を頼みに行った。私は最初からユースホステルなどに泊まって旅をしようと思っていたのだが、それはあまりにも無謀すぎるとたしなめられ(苦笑)、とりあえずホームステイをして生活に慣れたほうがいいと言われた。もしかしたらホームステイを受注するための商売文句だったのかもしれないが、私は素直に従い、希望の家庭環境(子供のいる家はNG)を伝えた。
銀行で預金残高証明をもらい、トラベラーズチェックをつくり、免許センターで国際運転免許証を発行してもらった。
クレジットカードは当時JCBしかもっていなかった。これが海外では(当時は)圧倒的に使えないことがわかり、慌ててVISAのクレジットカードをつくった。そのときの職業は「無職」。ああ、そうか、無職なんだ。親を保証人にしてカードをつくった。こんなことなら在職中につくっておくんだった。
ビザの申請に必要な肺のレントゲン検査を受けに行ったとき、病院の人が英語で書かれた用紙を見て「これ、コピーさせてもらってもいいですか」と言ってきた。こんな片田舎の町では初めてのことだったのだろう。とてもめずらしがっていた。
私は退職金をすべて旅費にあてたのだが、旅の資金を少しでも増やすため、持っていた車(インテグラ4ドアハードトップxsi)とバイク(エリミネーター250LX)を手放した。
ウォークマン用に好きな歌をつめこんだカセットテープをたくさんつくっておいた。
とりあえず、最初の2か月はメルボルンでホームステイしながら英語学校に通うことになった。それ以降はフリーだ。
オーストラリアはどでかい国だ。私は季節をふまえた行程を考えた。気候も地域によって全く異なる。エアーズロックは絶対行きたいし、なによりきっかけとなったインディアンパシフィックは絶対に乗りたい。
メルボルンでのホームステイ先は、一人暮らしの女性のところに決まった。シティからはちょっと遠いが、トラム(路面電車)で学校まで通うことができる。当時は週160ドルだったかな、今はもっと高いでしょう。
ビザ申請書は英語だらけで(当たり前だが)、よくわからない。辞書で調べながらなんとか記入した。レントゲンの診断書、預金残高証明書を添えて、1995年6月、田町にあるオーストラリア大使館に提出、即日発行された。
そのあと、町役場に行って転出届を出した(住民票を抜いた)。
当時セキセイインコを2羽飼っていた。この子たちと1年間離れるのはさみしいけどごめんなさい、行ってきます。
いよいよ出発だ。